Changed

今日は久しぶりにトラウマに関係する夢を見た。

私は27歳の誕生日を目前に控えていた。

周囲にいる人たちだけ高校時代に戻っていた。

私は何かの受験をしていた。

テストを受けている最中に私はトイレに行きたくなった。

その時何故か私は裸だった。

すぐ近くにはトラウマの張本人、Y先生がいた。

もちろん進んで裸を見せようなんてことはないが、見られたところでどうでもいいし、そもそも彼は今までに私の裸など何回も見てきているのだ。

彼は気まずそうに目を泳がせていたが、私は裸のまま堂々とトイレに向かって歩いて行った。

プールのシャワー室のように、簡単に壊れそうなパーテーションで区切られているトイレ、そこに私は入った。

薄い壁の向こうに彼はいたが、私は構わず用を足した。

堂々とした私の態度に、先生は言った。

「◯◯(私の苗字)、変わったな、あの頃から」

あの頃とは一体いつのことだろう

本当に必要だった父性と好きを勘違いし、先生だいすき!ずっと一緒にいてねと、孤独を埋めようと必死だった高校生の頃だろうか

すべての事が終わった直後、それでも会いに行って感情のないセックスをしたあの頃だろうか

自分の心の傷に気付いて暴走して暴言を吐いていたあの時期か

いつのことを指しているのかはわからなかった。

だが、私は確かに変わった。

『そうだね、変わった…と思う…変わらなければ、ダメだったから』

某有名女性支援活動家に「過去は変えられないわけじゃない、変えることも出来る」と言われた事がある。

言われた当時も今も、それは違うと思う。

私がしてきたこと、されたこと、言った言葉、言われた言葉起こった出来事はどうしたって変えられないのだ。

ただ、今になって思う。

過去のことをどう受け止めるのか、解釈するか

周りがどう思おうと、私がどう思うか

それだけがすべてなんだ。

アルコール依存症の父について②

気づけば前回「続く」と書いてから9ヶ月も経っていた。

いろいろなことがあって詳しく全ては覚えてないけど書いてみようと思う。

(前編はこちら → アルコール依存症の父について - あの日々に鍵をかけて )


私が父をなんとかしなければという強い思いがあった。

自分のことで精一杯な状況で、人の心配をしている場合ではない。ましてや、アルコール依存の父親を薬物依存の娘が支えるなんて無理なのだ。

私はその頃(4月頃)徐々にシラフの時間を作れるようになっていったが、父親のせん妄事件があってから1人で問題を抱え込んで薬に頼る生活が復活してしまった。

依存症外来の主治医に父親のことを話した。


「あなたのお父さんって何歳?」

『54です』

「アルコール依存未治療の男性の平均寿命って知ってる?51歳なんだ。だからあなたのお父さんは寿命を超えてる。今の状態だといつ死んでもおかしくない。明日かもしれない、数年後かもしれない。10年は無理だね。心の準備をしておこう。それにね、あなたも自分のことで精一杯で、その状態でお父さんのことを支えようとしたら共倒れになるよ。僕はあなたが助かってほしい。どちらも助けることはできない」


私ではどうにもできない

その事実を認めたくない

人はいずれ死ぬが、いつ死ぬかはわからない

その日が来るまでの時間を延ばすことができるかもしれないという淡い期待を捨てられなかった。



しかし、できることはなく
私のODは復活、そこから解毒入院をした。


私が父のことで躍起になっているのには理由がある。

父は元々お酒を飲む人だったが、私が癇癪を起こして暴れるようになってからお酒の量はどんどん増えていった。

私が小さい頃に何缶飲んでて
何缶まで増えたのかなんてわからないけど

泥酔した結果真冬の道路で眠りこけたり
失禁して廊下がおしっこまみれだったり

そんなことになったのは
私が成長していくにつれての出来事だった。

私がパパを壊したから
私がパパを支えなきゃ

そう思っていた。


父親のことを考えるたびに泣き
自分の不甲斐なさに苛立つ。

どうしよう、どうしよう


1人で抱え込んだ結果
1人では何もできないことに気づいた。

市の保健師さんに連絡をして事情を話した。

その後、保健師さんと母親が繋がった。
保健師さんは何かをしたわけでもなく、気休め程度に存在するくらい。


今後の方針として
次に倒れて(内科)入院した時には
アルコール依存の専門の病院への入院にうつる

任意入院では勝手に出てきてしまう

だから倒れたときがチャンス
生きるか死ぬかわからないような
次の倒れた時が動ける機会になる。

しかし、次に倒れた時(心停止)したら、父は今度こそ死ぬだろうと思っていた。


次に倒れた時には死んでるよ?
それをチャンスに頑張れって??
意味がわからなかった。

だが私たちにできることはこれしかなかったのだ。

倒れてせん妄が出た時にアルコール病棟に入院してもらいますと私たち家族は父に伝えた。

そこから内科入院が2回あったが、すぐに退院してアルコール離脱のせん妄もでなかった。逆に言えばせん妄は退院直後の飲酒であらわれなかったのだ。


そして先週のこと、すべて聞いた話。
事態が動き出した。

アルコールの飲み過ぎで呼吸困難になっている父を弟が発見した。すぐに119で搬送してもらった。

内科入院になった。2.3日でせん妄はあらわれ、内科病棟では診れませんとのことだった。1.2回だけ行かせたことのあるアルコール依存の専門病院に問い合わせたところ受け入れOKとのことで転院になった。

今、私の父は精神科病棟で医療保護入院をしている。

内服を嫌がり、代わりに点滴をするために手を拘束されたり、もちろん保護室。入院期間はわからないがとりあえず3ヶ月ほどは頑張って欲しい。

弟と母は1ヶ月くらいで済むんじゃないの?と言っていたが、依存症の治療はそんなに甘くはない。頑張れるなら半年ほど入っていてほしい。

そんなわけで父がアルコール依存症と向き合い始めることになった。ここはまだスタートだ。途中でもない、紛れもなく1番最初、スタートなのだ。

アルコール依存症の父について

うちは母も父もお酒を飲む人だった。

夕飯の時間にプシュッと音が鳴る

大人はビールを飲むのだ。

私も大人になったらビールが大好きになって、ビールをご褒美に生きていくものだと思っていた。

小学生になって、いつだったかある日のこと「えなちゃんのママってビール飲むんだね!うちのママはお酒飲まないよ!」と言われた。

みんながみんなお酒を飲む人ではないということ、両親ともに毎日ビールを飲むのは珍しいということを知った。

次第に父はアルコールの量が増えていき、真冬の畑で潰れて爆睡、家に帰ってこない、職場で隠れて酒を飲んで寝るなど着実にアルコール依存の道を歩んでいった

父がアルコールに依存するようになったのは、家庭に居場所がなかったからだと思う。私は父を毛嫌いしていたし、両親は不仲、私は精神が不安定で癇癪を毎日起こす。そんな場所にいたくなくてアルコールに逃げたことは責められない。

アルコールが主食でご飯を食べない生活に変化していった。

175cm60kgの元々細身だが痩せ細り体重は45kgになった。それが私が高校生の頃だから多分10年弱前。そして糖尿Ⅰ型の診断がおり緊急入院。

糖質の関係でビールが飲めなくなった父のお供はハイボールと緑茶ハイになった。

アルコールで病院にかかっていなかっただけで、とっくに依存症になっていた。

アルコールしか摂らない生活が続き、体がおかしくなっていた1年半前、とうとう父は死んだ。一度。一回死んだのだ。

魂の抜けた父を弟が抱え救急車に乗り込んだ。
蘇生され、父は生き返った。

そこでようやくアルコールの専門の病院にかかるという約束を、糖尿内科の先生と母とし退院する。

しかし通院したのは5回あったかどうかのレベル。

頑張ってお酒をやめていた時期もあったけれど、結局アルコール生活に戻り、1年前に内科入院。そして今回の入院。

ちょっとお酒飲んじゃって体調崩して入院した
くらいに私含め家族は思っていた。

だが想像以上にアルコールの離脱症状のせん妄が酷かった。あれだけのせん妄が出ているということは、私たちが気づかなかっただけで相当の量を相当な期間飲んでいたに違いない。

内科入院の病院は「せん妄はうちでは診れません」とほぼ追い出されるように退院した。

うちは家族経営で店をやっていて、父が入院したことで父抜きのシフトが作られた。作ってもらってそれで動いてもらっていた。だから父が多少の期間入院していようと大丈夫だった。

しかし父は妄想がひどく「明日の朝人がいないから3時間だけ退院させてくれ」と病院側にせがむ。そこで看護師と揉めたらしい。そもそもせん妄が酷い状態で仕事になんか行かせられないのに。

そんな感じで病院から追い出されて、昨日のお昼に「退院したよ」とLINEがきた。

おい(^ω^)なんで退院してるの?)^o^(

もう知らね〜!!勝手にしろ と私は不貞寝した。

その頃、弟からヘルプのLINEがきていた。正確には「暇?」ときていたのだが、あとから話を聞いて"LINEくれた時助けてって言いたかったんだな"と解釈した。私は爆睡していた。申し訳ない…。

LINEを見てからも「あとで返事しよ〜」くらいに思っていた。ゆっくり湯船に浸かりながらYouTubeを観た。

だいすきな!!
癒しのコムドットの時間、事件は起きた。
というか!!これこそ怪奇現象が起きた。

家族ラインにせん妄の話がぶっ込まれた。

ここでようやく事態がかなりやばいと気づく。
即刻弟に電話。

「昼間からやばくてさ〜」
『そっち行くわ………気づいてあげられなくてごめん。1人で頑張ってくれてたんだね、ありがとう』

急いで実家に戻った。

弟に事情聴取して今の悲惨な状況に2人でため息をついていた。

2階の自室からリビングに降りてきた父に「調子どう?」と聞いた。

父はこう言った。

「今さ!部屋に同級生2人きてんだよ!久しぶりに会うと楽しいな!!でもな!そのうちの1人は強盗かもしれねえんだよ。エナと○○(弟)には言っとく!(バッグを指差しながら)ここに金入ってるから。あとよろしくな!!」

その話がせん妄であるということをハッキリと言うべきか、話を全部聞いてから諭すか迷った。結局、落ち着かせてからゆっくり現実に戻ってきてもらおうと決めた。

『一旦座ろっか!退院したばっかりで疲れたでしょ〜!お水飲めてる??血糖値も心配だから測るね。バッグに入ってるよね?あけていい?』

「なんでだよ!ダメに決まってんだろ!!」

『ごめんね。いきなりビックリしたよね。パパのこと心配だから血糖値測りたいのね。バッグに機械入れてると思って開けようと思ったんだ。ごめんね』

「そっか、それならいいよ」

『ありがとう』

血糖値を測る機械、インスリン、針、アル綿
それが入ってるバッグを、父も私たちも「命のバッグ」と呼んでいる。そこにさっきの強盗の話に出てきたお金を入れていた。だからバッグを開けようとしたことに恐怖を抱いたのだと思う。

血糖値を測ると240
インスリン打っとこうか!打ってちょっとだけご飯食べる?』

「いい」

もうダメだ……

「2階で同級生が待ってるからもう上行くわ」と言われた。着いて行った。

父が部屋に入ると「え、いない…どういうことだ?エナ、そっちの部屋見てくれない?」混乱していた。

『あのね、びっくりするかもしれないんだけど…同級生はきてないの。パパは今自分では実感ないと思うんだけど、調子が悪そうに見えるんだ。同級生がきていたのは夢の中の話なの。パパは調子が悪くて夢と現実が混ざったり、境目がふわふわしている状況なの。驚いちゃうよね。でも同級生はきてないし、強盗もいない。強盗がきてたら怖いよね。私たちのこと心配してくれてたのかな、そうだとしたらありがとう。今はゆっくり休もうね』

当然のようにパニック

「俺ダメだもう……」

一緒にリビングに戻った。

こんな酷い状態で放っておくわけにもいかない。
次の日(4時間後)には起きて仕事に行くと言っていた。

社長の叔父は、私の父が退院したことすらまだ知らなかった。入院していると思っているから、父のいないシフトで店は回っていて次の日も父は休みだった。

しかし父は「俺がいないと店は回らないから出勤しないと」という妄想に取り憑かれている。自分がいないとダメなんだというプライドも大きかった。

私と弟は言った。
「明日(数時間後)は行かなくていいし、社長はパパが退院したことを知らないしパパがいない前提でシフトもできてるの。今も具合が悪いのに行かせられないっていうのもある。だから明日は休んで」

「じゃあ社長に電話するわ」

『今深夜0時だよ…この時間にかけるのはおかしいよね?社長に言う必要はないし、連絡しないで休んでていいの。だから寝よう』

「俺は仕事に行かなきゃいけないから退院してきたんだよ。それで仕事に行かないなら何のために俺は退院したんだよ?看護師とも揉めたんだぞ。意味なかったってことか?それに深夜だからなんて関係ない。俺が電話したいからするんだよ」

そもそも、仕事に行かなきゃいけないというのが妄想というか、理解ができていない。仕事に行かなくていいから退院もしなくてよかったということも理解できない。そして社長に電話をかけてしまった。

「お疲れ様です〜もう退院したんで明日の朝行きます。もう元気なんで!」

私と弟はアイコンタクトで会話
あ〜やっちゃった〜
明日は行かせないこと、本来退院しちゃいけない状況でしちゃったこと、深夜にかけたことの謝罪、弟が電話を代わって諸々伝えてほしいと目で訴えかけた。

私は社長の叔父と仲が悪いから弟に頼んだ。

さすが23年一緒にいただけあって弟は全てを理解して電話を代わった。

明日は行かないということになって電話は終わった。

すると父は激怒

「なんで俺のシフトをお前らが決めるんだよ」
「俺の仕事のことに首突っ込むのおかしいだろ」
「定職に就いてない○○(弟)が定職に就いてる俺のシフトに指図すんな」

言いたいことはわかる

夢と現実が混ざるのは、アルコールの離脱、アルコールの影響ということをどうしても理解できない、というか理解したくないようで、アルコールの話をすると見事にすっ飛ばされた。認めたくないんだろうな。

ここから深夜の3時半まで話し合いは続いた…まさに地獄だった。途中から母も参加した。

結局、翌朝父は仕事に行った。
私たちはもう知らんという感じだった。

木曜に入院
日曜に退院(させられた)
その日がせん妄ピークで深夜3時半までの地獄
月曜 勝手に出勤


次の記事はタイトルに書いてある
本題になる宣告の話
3700文字のここまでが序章なのシンプルに無理(笑)

具体的な期間を言われたわけではないが、余命宣告みたいなものをされた話、近日公開………

依存症 経過

2023年開幕から2ヶ月が過ぎようとしている

2017年の秋からは5年以上が経った

5年間わたしの時はずっと止まっていたのだが、最近ようやく時が動き出した気がする

4年弱市販薬で感情を麻痺させて生き延びてきた

薬が私を生かしてくれた

あの頃の私には薬が必要だった

誰も信じられなかった

人が怖かった

解決してくれるのは薬だけだった

私を生かしてくれた薬が副作用としてあらわれたのは、体への負担だけではなかった

沢山の友人や信頼、お金、時間を失った

薬にはざっと80万、ODをすることで荒れる胃腸の対策の薬代、解毒入院3.4回、だいぶ低く見積もって150万は消えた

薬を飲んでいると些細なことでイライラして、トラブルになることも多かった。それ故に大切だった親友に酷く当たり散らして散々傷つけて関係を破綻させてしまった。高校の頃からずっと支えてもらっていたのに。

親友だけじゃない、本当に沢山のものを失った

ここまで人を傷つけて迷惑をかけて、それでも薬を使って生きる必要があったんだろうかと思うことがある

傷つけてきた人々にはもう謝ることすらできないけど、これ以上誰も傷つけないで生きていく


わたしは

強くなると決めた


口だけではいくらでも言えるし、何度も頑張る宣言をしてきてその度に期待を裏切ってきた

だから今わたしが固い決意を持って明るい未来に向かって進んでいることをここに残そうと思った



私のことをよく知ってくれている、このブログを読んでくれている方たちは、私がどれだけ薬物に侵食されているか知っていると思う

飲んじゃった日は赤シール
飲まなかった日は(シラフの日)は青シール

青シールを連続で11枚貼れた
今日で12日目だ


ODをやめたい人には記録をつけることをおすすめしたい

話がごちゃごちゃしているのだが、本気で断薬を始めた理由を書こうと思う


断薬をしようと思った理由

①頑張っている人をよくみてモチベーションが上がった
→引きこもりの弟が住み込みで働き始めた
→妹が受験を頑張っている姿を見た
→尊敬できる生活スタイルをしている友人ができた

②記念日を区切りにしたいと思った
→先週誕生日を迎えた。迎えるにあたって新しい自分になりたいと思った


モチベーションが上がったから
区切りにしたいと思ったから

思うなんて簡単で難しいのは実行することだ

それを4年かかってようやくできた理由がある



断薬を始められた理由

①依存症のプログラムに通い始めた
→依存症専門のプログラムに定期的に通った(現在3ヶ月くらい)

②シールを貼ることで見える化した
→青シールを貼れる達成感があった

③薬を飲まないといられない根本の原因の治療
→カウンセリングに週一で通って、抱えている生きづらさやトラウマに焦点を当てて、記憶を整理していった
→そこから生まれた漠然とした自分への安心感、他人への安心感
薬がなくても大丈夫かも と思えた

デイケアに通い始めた
→①②③の過程があり、徐々に調子が良くなってデイケアに参加できるようになった
→そこでの人間関係や人と過ごす時間に励まされた



たかが12日断薬しただけで偉そうなこと言いすぎだけど、3日でさえ断薬できなかった私が12日断薬できているのは、自画自賛になるが進歩だと思っている

何より

やめなきゃいけないから やめよう

ではなく

やめたいから やめよう

という気持ちになれた



薬をやめてみた世界はあたたかった

辛いことを思い出しても「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と自分に優しくできる

薬が飲みたくなったら「1人でいると飲みたくなるから今から会いたい」と伝えられるし、それを受け入れてくれる人がいる

何気ないことに幸せを感じられる今と、ここまで支えてきてくれた沢山の人たちにありがとうを

つぼみの中で春を待つ

もうすぐ春が来る。

14日間の入院を経て外に出たら梅が咲いていて春めき始めていた。

これから暖かくなってくる。寒い季節が苦手なわたしは、これからの気候を考えて少し安堵している。新しい命が芽吹くこれからの季節と共にわたしも生まれ変わりたい。




今回、5回目の入院で大きな一歩を踏めた気がする。

今回も入院目的は「解毒」

5日間ほどは離脱症状があった。普段の離脱よりかはだいぶ楽で、思ったよりすっぱり抜けられた。

OTでは毎日60分エアロバイクを漕いだ。
平日の毎日の個人面談では課題に取り組んだ。

14日間の入院というのは入院時に決めた。離脱が終われば退院したくなることが分かりきっていたから、あらかじめ退院日を設定した。

やはり退院したい欲求はきた。

同じく薬物依存の友達たちに「わたしが退院したいと言ったら止めてほしい」と頼んであったため、友達たちは止めてくれた。

退院したい旨を担当医に伝えた。
担当医はこう言った。

「退院したいと思って退院することと、薬を飲みたいと思って飲むこと、これは同じようなものだよね。どちらも衝動的にならない、衝動に飲み込まれないようにするというのは今後薬の欲求に耐えるために必要なことなんじゃないかな?」

ど正論をかまされた。

衝動に"ひとりで"耐えようとして、爆発した結果負けてしまうということがわたしには多いような気がする。

精神科に入院する人たちの中には、大好きな看護師さんができたり、ハグしてもらったり、メッセージをもらったりということがある人たちが一定数いるが、わたしには考えられないことだ。

心を開くということができない。
"どうせ"話したって無駄だと思う。

けれども今回は人に頼ってみようと思った。
人を信じてみたいと思ったのだ。

看護師に退院したい欲求を話してみた。
その看護師とは波長が合わなくて苛立つばかりでうまくいかなかった。やはり頼らなければよかったと失敗体験になってしまった。

その直後、作業療法士さんが面談に来た。

「調子が悪いので今日は課題ができません」

「そうですか。ではまた明日来ますね」

「あの、話を聞いてもらえませんか?」

もう一度話をしてみようと試みた。
作業療法士さんはわたしの話を親身に聞いてくれ、分析してくれた。とてもわかりやすく整理してくれた。

わたしのために資料をまとめてくれて毎日きてくれる作業療法士さんを裏切りたくないと思って退院は予定通りにするという決断をした。

その日からわたしの目標は「継続」になった。

・入院を継続する
・お風呂に毎日入る
・エアロバイクを毎日漕ぐ
・入院中は3食きちんと食べる
・課題をやり続ける

継続は力なり

継続ができてきて自己肯定感も上がった。今日も頑張れたから明日も頑張ろうとモチベーションも上がった。

もう少し人を信じてもいいかもしれない。
人って案外悪くないかも。

そう思えた。

トラウマができて人を信じられなくなり、その結果今までの友達とトラブルになって縁を切ることになってしまったり、そんな風に人間不信のループにいた。
人への安心安全感のイメージを取り戻すことが私の今後の目標なのだとよくわかった。

そうして無事に退院日を迎えた。




私は今つぼみの中にいる。
だんだんと花びらが開き、そこには日差しが待っている。


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マイスリーにテキーラ、今日とさよなら

乗り越えたと思っていたトラウマが実は乗り越えられていなかったということを自覚し、かなりのショックを受けている。私はまた突然に思い出したのだ。あの頃のことを。

思い出すことが怖い。思い出さないように市販薬を詰め込む。食べるように薬を飲む。退院してたった3週間でボロボロになっていると誰が予想しただろう。

忘れようと思って記憶があやふやになるというもはや恒例行事。記憶が抜け落ちたような感じ。自分が自分じゃない。自分の枠からはみ出している、ずれている。

私って誰だっけなあ、アイデンティティの崩壊。

マイスリーが効いてきたみたい。

それでは、

オブリビエイト!!!!

無気力の波にのまれる

*****
この記事は3月1日あたりから少しずつ書き進めたものです。
書き終えたのは3月8日。
それまでの出来事や気持ちです。
*****




今日も今日とて体がだるい。
代謝、分解しきれるはずのない大量の薬を飲んでいるからである。

疲弊した精神、何が私の心に負担をかけているのだろう。日常の記憶がぼんやりして掴めない。

先日のカウンセリングでは、カウンセラーに私は「私に何がありましたか?」と訳のわからない質問をした。この質問をしたのは初めてではない気がする。おかしなこんな質問を前にもしたと思う。

カウンセラーは私の質問に驚くことなく答えてくれた。何があったのかを大体の範囲で思い出せた。映画で主人公に何があったかの回想シーンが不鮮明ながらも映し出されているような感覚だった。

生きている現実を受け入れて、頑張らなくてはと何度も考え、その度に心が折れる。そして「何も考えたくない!」という状態に行き着き薬を詰め込む毎日。満たされない心は薬では補えない。薬では補えないし、何をしてもダメだと諦めている。だとしたら感情を麻痺させて今を凌ごうと、生き延びるために30錠、追加していくうちに60錠を超える毎日。

連続使用が35日ほど続いている。さすがに体が悲鳴を上げている。その悲鳴に声を傾ける、自分のSOSに気付かなければ。結局ODをするという結果は変わらないが、飲む量を調節することにした。飲んでしまっても30錠までと自分に約束をした。

数日前の診察で無気力の酷い状態が続いているのには原因があるのではと言われた。「何か思い当たる心に引っかかっていることはない?」
『きっとこれだろう』と確信を持てることが一つあった。

けれども私が悩んでいることなんて、人と比べれば小さなことで、自分のストレス耐性のなさに悲しくなる。人と比べる必要がないと分かっていても、比べてしまうのが人間の性だ。

この人より優れている、この人より辛い、この人より弱い
私はいつも自分の位置付けをする。

そういえば、ほとんどのSNSを消した。
消すに至った理由はたくさんある。

人と比べてしまうということに関連する話。
消した理由の1つ目。
私と同じくパブロンに依存している人がいた。私はパブロンを飲む時は少なくて25錠、多くて70錠ほど。その人は毎日のようにパブロンを飲んでいたが、私と比べて飲む数は圧倒的に少なかった。10錠15錠そのくらいだったと思う。私は月に1回肝機能の数値を測るために血液検査をさせられていて、そのことをツイートした日には「私も毎日15錠も飲んじゃって…肝臓がもうやばいから血液検査をしたい…けど家族にはバレたくない」と相談のDMがきた。
私からすれば10〜15錠ならまだマシだと思った。
タバコで例えるなら、私が1日1箱吸っていて、相手は1日5本以下の状態。1箱吸っている私に5本の相手が「タバコやめられないどうしよう」と言っているような感覚だった。

薬を飲む数が辛さと比例している訳じゃない。薬が少ない彼女の苦しみが少なくて、彼女より多く薬を飲んでいる私の方が辛いわけでもない。
そんなことわかっているけど、私がパブロンのツイートをするたびに「私も飲んじゃった…」と毎回リプが飛んでくるのが正直なところ負担でしかなかった。

同じ苦しみをわかちあおうという気にもならなかった。「私も」と毎回飛んでくるリプに対して、私がどんな風に返せば良かったのか、私に何を求められていたのかは未だにわからない。

プロフィール欄の病名の羅列。病名の多さのマウント。1番おもしろかったのは病名の羅列の中に「カンジダ膣炎」を書いていた人。

人から比べられると比べてしまう。
もうそんな生活やめたかった。
SNSを消してからはストレスが減った。

理由の2つ目は、HSPに当てはまる人にとってのSNS利用が過度な刺激になるということ。

通っているデイケアでのあるセッションで「自分の心と体を守る」というテーマがあった。その話し合いで、SNSをやめることがストレス回避になっているという意見が多数出た。

精神疾患を患っている人はHSPの特徴に当てはまることが多いようで、HSPにとってのSNS利用は私だけに限らず、ネガティブな内容や怒りのツイートが自分に向けられていると感じる人が予想以上に多かった。

SNSを消して1週間が経った。何かが劇的に変化したわけではないが、心が軽くなったように感じる。

Twitterをしていたからこそ出会えた大切な人たちもいる。15年くらい前までの世界では考えられなかったこと。そこで出会った人たちとは今後も仲良くしていきたいし、その人たちのことを考えればSNSをやっていたことを後悔することもない。


最後に3つ目
良くも悪くも他人に興味を持てなくなった。
今まで何回もSNSを消すことを考えたが、実行に移せなかったのは、友達の近況を知りたかった、気になっていたから。SNSをやめれば人の話についていけなくなるかもしれない。そう考えていた。

今まで人にしがみつく人生だったが、無気力な状態が続いている今は他人のSNSに興味が湧かなくなった。私が何をしていようと、友達が何をしていようと、それを知っていなくたっていいじゃないか、そう思った。

実はTwitterに関してはアカウントが常に10個ほどある状態だった。次々と削除をした。他人にしがみつくことがなくなったのはいいことだとしても、あまりにも興味がわかない、それはそれで何かが違う気がする。

とにかく、他人と比較する人生はもう終わりにしよう。
私は私の人生を生きる、生きなければ。

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