アルコール依存症の父について②

気づけば前回「続く」と書いてから9ヶ月も経っていた。

いろいろなことがあって詳しく全ては覚えてないけど書いてみようと思う。

(前編はこちら → アルコール依存症の父について - あの日々に鍵をかけて )


私が父をなんとかしなければという強い思いがあった。

自分のことで精一杯な状況で、人の心配をしている場合ではない。ましてや、アルコール依存の父親を薬物依存の娘が支えるなんて無理なのだ。

私はその頃(4月頃)徐々にシラフの時間を作れるようになっていったが、父親のせん妄事件があってから1人で問題を抱え込んで薬に頼る生活が復活してしまった。

依存症外来の主治医に父親のことを話した。


「あなたのお父さんって何歳?」

『54です』

「アルコール依存未治療の男性の平均寿命って知ってる?51歳なんだ。だからあなたのお父さんは寿命を超えてる。今の状態だといつ死んでもおかしくない。明日かもしれない、数年後かもしれない。10年は無理だね。心の準備をしておこう。それにね、あなたも自分のことで精一杯で、その状態でお父さんのことを支えようとしたら共倒れになるよ。僕はあなたが助かってほしい。どちらも助けることはできない」


私ではどうにもできない

その事実を認めたくない

人はいずれ死ぬが、いつ死ぬかはわからない

その日が来るまでの時間を延ばすことができるかもしれないという淡い期待を捨てられなかった。



しかし、できることはなく
私のODは復活、そこから解毒入院をした。


私が父のことで躍起になっているのには理由がある。

父は元々お酒を飲む人だったが、私が癇癪を起こして暴れるようになってからお酒の量はどんどん増えていった。

私が小さい頃に何缶飲んでて
何缶まで増えたのかなんてわからないけど

泥酔した結果真冬の道路で眠りこけたり
失禁して廊下がおしっこまみれだったり

そんなことになったのは
私が成長していくにつれての出来事だった。

私がパパを壊したから
私がパパを支えなきゃ

そう思っていた。


父親のことを考えるたびに泣き
自分の不甲斐なさに苛立つ。

どうしよう、どうしよう


1人で抱え込んだ結果
1人では何もできないことに気づいた。

市の保健師さんに連絡をして事情を話した。

その後、保健師さんと母親が繋がった。
保健師さんは何かをしたわけでもなく、気休め程度に存在するくらい。


今後の方針として
次に倒れて(内科)入院した時には
アルコール依存の専門の病院への入院にうつる

任意入院では勝手に出てきてしまう

だから倒れたときがチャンス
生きるか死ぬかわからないような
次の倒れた時が動ける機会になる。

しかし、次に倒れた時(心停止)したら、父は今度こそ死ぬだろうと思っていた。


次に倒れた時には死んでるよ?
それをチャンスに頑張れって??
意味がわからなかった。

だが私たちにできることはこれしかなかったのだ。

倒れてせん妄が出た時にアルコール病棟に入院してもらいますと私たち家族は父に伝えた。

そこから内科入院が2回あったが、すぐに退院してアルコール離脱のせん妄もでなかった。逆に言えばせん妄は退院直後の飲酒であらわれなかったのだ。


そして先週のこと、すべて聞いた話。
事態が動き出した。

アルコールの飲み過ぎで呼吸困難になっている父を弟が発見した。すぐに119で搬送してもらった。

内科入院になった。2.3日でせん妄はあらわれ、内科病棟では診れませんとのことだった。1.2回だけ行かせたことのあるアルコール依存の専門病院に問い合わせたところ受け入れOKとのことで転院になった。

今、私の父は精神科病棟で医療保護入院をしている。

内服を嫌がり、代わりに点滴をするために手を拘束されたり、もちろん保護室。入院期間はわからないがとりあえず3ヶ月ほどは頑張って欲しい。

弟と母は1ヶ月くらいで済むんじゃないの?と言っていたが、依存症の治療はそんなに甘くはない。頑張れるなら半年ほど入っていてほしい。

そんなわけで父がアルコール依存症と向き合い始めることになった。ここはまだスタートだ。途中でもない、紛れもなく1番最初、スタートなのだ。