大切な人のお話

父方祖父にとって、私は初孫。
欲しいものは何でも買ってもらえた。
私はおじいちゃんが大好きだった。
親戚の中で多分1番に私のことを可愛がってくれた。


私がまだ小さい頃、おじいちゃんと2人で動物園に行った。微かに記憶にある。
その動物園は山にあるから、途中は山道でヘトヘトになってしまう。
そんなことも気にせず、私はおじいちゃんに山道をおんぶして走ってくれ!とお願いした。
おじいちゃんは走ってくれた。
あの頃はおじいちゃんまだ走れたんだね。
気分屋の私は動物園で「ラーメン食べたい!!」と騒ぎ始めた。おじいちゃんは必死にラーメンを探してくれたけど、動物園にラーメンはさすがになかった。
犬の散歩のような形で、蝶々にスティックが付いていて、それを押して歩くと蝶の羽がひらひらと動くおもちゃを買ってもらった。
多分すぐに飽き気がするけど、そのおもちゃのことは覚えている。


おじいちゃんちの近くには、ひよこマークが目印の安いスーパーがあって、私は祖父母の家に行く度に、三輪車に乗って、その三輪車をおじいちゃんに押してもらってひよこのお店にお菓子を買いに行った。
私を甘やかすおじいちゃんは、いつもお菓子を買いすぎてしまって(私が買わせた)おばあちゃんに怒られていた。ごめんね笑


プーさんが大好きだった私には、大きなプーさんのぬいぐるみというか、もはや置物のような大きなものを買ってくれた。


私が段々と年を重ねるごとに増えるいとこや兄弟。そして毒親のような叔母たちが増え、私は叔母たちに会いたくなくて祖父母の家から遠ざかっていた。


同じ県内に住んでいながら、会うのは年に2回ほど。

毎年ゴールデンウィークに行うBBQも去年に引き続き今年も私は参加をしなかった。

あれが最後のBBQになるとは思わなかったよ。

 

私は大切な人を失うことから逃げていた。

人はいつか死ぬ。

でもそれは他人事だと思っていた。

 

通り魔も殺人事件も交通事故も、末期の癌で余命宣告されることも、全部全部私には関係ないことだと思っていた。思いたかった。

 

私が大好きで大切な人たちは、私が死ぬまでそばにいてくれるものだと、なぜか思っていた。

 

おじいちゃんが救急車で運ばれた。

これで何度目だろう。

おじいちゃんはよく運ばれていたけれど、驚異の生命力で毎回すぐに退院した。

 

今回もすぐに退院できるだろうと甘く考えていた。

 

お見舞いに行った時のおじいちゃんは、弱々しくなっていた。両手にはグローブみたいなものがはめられていた。痩せこけたおじいちゃん。何日もお風呂に入れてなかったようだった。垢だらけ。何本も点滴につながれていた。何をしゃべっているのかはよくわからなかったし、おじいちゃんも私の話を聞き取れなかった。

 

18時になって夕飯が運ばれてきた。

看護師が言った。

「今日はご家族の方が食べさせてあげてください」

おじいちゃんに食事を食べさせるという最初で最後の介護になった。

 

美味しくないのかおじいちゃんは食事を一口で終わらせた。

「おじいちゃん、もう少し食べよう!おじいちゃんが食べて元気になったら、えなは嬉しいよ」必死に伝えたけれどおじいちゃんは食事を拒んだ。

 

食事を終わらせて、また来るねと伝えて帰ってしまった。

本当はその場にいた弟と従姉妹とおじいちゃんと4人で写真を撮りたかったんだけど、わざわざ写真なんか撮ってしまったら、これが最後になるような気がして撮らなかった。

 

おじいちゃんの生命力は本当にすごかった。けれどこれが最後になるかもと考えてしまうくらい、今回おじいちゃんは弱っていた。本当に最後になってしまった。

 

それから1週間半くらいしたある日

私はカウンセリングを終えて帰りの電車の中だった。

母からLINEで「今電話できる?何時に帰ってくる?」ときた。

電話するほどの急用ってなんだろう。私また怒られるようなことやらかしたかな。

てっきり私は何か怒られるものだと思った。

「今は電車だから電話はできない。用件は何??」と返すと「おじいちゃんのこと」と返ってきた。

 

一瞬で察した。

その瞬間涙が溢れでた。

電車の中でワンワン泣いた。

周りの人たちなんてどうでもよかった。

ただ、大切な人がこの世からいなくなってしまったという現実、悲しみ、もっと会いに行けばよかったという後悔。

 

過呼吸になりながらもすぐに帰宅し、おじいちゃんちに家族揃って行った。

 

おじいちゃんのご遺体と会った。

もうおじいちゃんに人間の温かさはなくなっていた。

ひんやりとしていた。

おじいちゃんは安らかな顔だった。

 

そこからは記憶が曖昧になっている。

お通夜の日の記憶はほとんどない。

 

おじいちゃんが亡くなったショックと、今回の件で毒親戚と嫌でも顔を合わせなきゃいけなかった数日間のストレス。お葬式の朝私は発狂していた。

 

おじいちゃんときちんとお別れしたい

だけど心の傷、トラウマになっている毒親戚が耐えられない。

 

22歳にもなって子供みたいに泣いた。

お母さんの提案で、親戚達がお葬式に集まる時間の前にお別れをしに行った。

棺桶に入ったおじいちゃんに「えなのこと可愛がってくれてありがとう。今までありがとう」と泣きながら伝えた。そして感謝の意を込めて書いた手紙を胸元に置いた。

 

おじいちゃんとはそれが最後だった。

私はお葬式に出ることができず、帰った。

 

悔しかった。おじいちゃんのお葬式くらいちゃんと出たかった。だけどそれができなくなるほどに、私の心の傷は深いということを改めて知った。

 

お葬式に出れなくてごめんねおじいちゃん。

悔しさで泣いた。

でもきっとおじいちゃんはわかってくれたと思う。

私が孫の中で誰よりも感謝していて、誰よりもおじいちゃんのことが好きだったか。

お葬式に出れなかったことを、おじいちゃんはきっと怒らない。

 

おじいちゃん、84年楽しかった?

人生が終わって84年の中で何が1番嬉しくて、何が1番つらかった?

私がいつか天国に行った時に教えてね。

私も経験したこと沢山お話するね。

 

 

死んでしまってからでは遅いから、今できることを一生懸命やっていかなきゃと、強く思った。

 

令和元年、おじいちゃんは亡くなった。

 

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