蜃気楼より不確か

最後の更新から1週間半。調子が悪くて文章を書ける状態ではなかった。書いては消しての繰り返しをしていた。納得のいく記事をどうしても完成させられなかった。今日は少しだけ書けそう。今の思いや、過去のこと、書けるだけ書きたいだけ書いてみる。



私の存在は不確かだ。
蜃気楼よりも不確かな存在。
地に足がつかないような毎日。

あやふやな毎日の記憶。

すべてを投げだせるのなら、何もかもを放棄したい。その”すべて”とは、病気やトラウマだったり、しんどかった過去。時に人間関係。
捨てたいと思う。捨てることができないのなら、一旦休憩が欲しいと思う。


数こそ少ないが、理解してくれる人が存在することに有難さを感じる。彼女たちがいてくれていることを忘れてはいけない。それなのに、疲れてしまうと私には誰もいないような気がしてたまらない。私は一人だ。独り。独りぼっち。ひとりではないはずなのに孤独感に苛まれる。

この記事を読んでくれている人もひとりぼっちなのではないのかな。

ひとりではないはずなのに、孤独だと思ってしまうのはきっと過去に傷ついてきたからなのだろう。私は辛かった記憶があやふやになることが多い。「処女を奪われたこと」「信じていた、生きがいだった、彼がいなければ私は死んでいた、愛していた彼にあっさり捨てられて子どもまで失ったこと」これらは診断書に「外傷体験」と書かれていた。生きてきた過程で傷つきが多かったのかな。今ではあの時の苦しみなんて3分の1も思い出せないのだけれど、きっと当時の私は深く傷ついたのだと思う。

元担任に捨てられたことを第三者から見れば、ただの思春期の恋煩いとそう片づけられるのかもしれない。けれど私は彼のことを心の底から愛していたのだと今は思う。出会ってすぐに好きになって5年半という月日が流れ、最後はあっけなかった。あの時の絶望感、それこそ孤独感は底知れないほどだったのかな。思い出そうとするとクラっとするような感覚。辛くはないけど、心が体が思い出すことを拒否する。

ここまで書いて、ふと思い出したことがある。
私がもし大学を続けていたとしたら、今月卒業式を迎えていたはずだった。
同じ高校出身のあるギャルが、今ではきれいなキラキラインスタグラマー。そして彼女は4年間看護学校に通い、先月の国家試験に合格した。4月から晴れて病院勤務。彼女のインスタに数日前、私を捨てた元担任とのご飯の様子の写真が投稿されていた。元担任の顔は隠されていたが、顔なんて見なくたってわかる。可愛くてきれいな教え子が看護師になるのだ。さぞかし嬉しかっただろう。
看護師になる夢を捨てた私。元担任に捨てられた私。
看護師になる夢を叶えた彼女。元担任に笑顔でお祝いされる彼女。
心が痛くなった。心が握りつぶされているような『痛いよ、やめてよ』と言いたくなるほどに。私と彼女は何が違うの?私と元担任の関係性、卒業生と元担任、比較対象にすること自体がおかしいことはわかっている。それでも思ってしまうのだ。その笑顔を私にはもう二度と見せてくれないのね。

傷つくたびに心から血を流す。手首から血を流す。
傷つくたびに死のうと思う。今までに自殺未遂を何度したことか。
しかし、傷つきが多かったとは言え、傷つきの体験だけが私の病気のすべてではない。病気を傷つきのせいにしているわけでもない。こんなことで傷つく私が弱いだけだ。心のキャパシティが広かったら、寛容であれたら...違う人生を送ることができたのかもしれない。病気になった理由は「私が弱かった」それだけ。



生きることを諦めないで
いつまでも、何があっても
生にしがみついていて。

そう自分に優しく言ってあげた。


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