トラウマ

お久しぶりです。
年が明けました。

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2020年
物質使用障害(薬物依存)が重度になり、蓋をしていたトラウマの存在に気づき、躁鬱の波も数日でコロコロ変わるような日々。

閉鎖病棟から1年が始まり、11月にはまた入院。
今年はシャバで1年を迎えられたことに幸せを感じ、当たり前のことを当たり前に思わず、何に対しても感謝をしよう……なんて思ったり。


今日の記事は「トラウマ」についてをメインに。



最近は治療意欲が落ちていて、カウンセリング、治療グループ参加、何に対しても「この時間には何の意味があるのだろう」と答えが出ないのをわかっていて自分に問うようになった。人と話をしたくない。カウンセリングでは特に、昔のことを思い出すことが苦しい。トラウマを思い出して話をして、その話をしているその時の環境(部屋やカウンセラー)が安全だと思えることが、カウンセリングの目的であって(多分)そこからトラウマ自体が安全な記憶になるのかもしれないけど、私はその過程を踏んでまでトラウマをどうにかしたいと思える気力がない。今の私には余裕がない。


トラウマをトラウマと認識してしまった時点で私は負けたのだ。


グループ治療で「トラウマ」に関しての勉強会が年内にあった。
トラウマねえ…虎、馬、なんだトラウマって。なんて軽く考えていた。私にもトラウマみたいなものはあるらしいけど、この回は私にはあまり関係ないなあ。そのくらいに思っていた。

「トラウマ体験とは、事故や犯罪の被害に遭ったり、戦争や災害に巻き込まれたりするなど、自分自身ではどうすることもできないような強烈で、強い恐怖心や無力感を生じさせる体験のこと。このような体験をした後には、誰にでもさまざまなトラウマ症状が起きる可能性があるが、それは"異常な状況に対する正常な反応"であり、ましてや自分が弱いわけでも悪いわけでもない。トラウマ症状の多くは少しずつ良くなっていくが、ときとして心に深く大きな傷を残し、トラウマ体験の後遺症として長引くことがあり、それはPTSDと呼ばれ、専門的な治療が必要になる。」

この感覚は何だろう…息がうまくできない…頭の中がぐちゃぐちゃになっていく…フラフラする。手だけではなく体全体が震える。ここで泣いてはダメだ。泣く理由なんてない。何故涙が出そうになるの。私には関係のない話なのに、今この瞬間、私が辛い理由って何?怖い…消えたい…怖い

気づいた時には涙が出ていた。
下を向きながらこっそりと退出した。



今日のメンクリでの診察でそのことを話すと「専門的な治療が必要なのかなあ。でも専門的な治療ってなると週1で2時間くらい必要になってくる。ちょっと調べてみるね」と言われた。

眼球運動なんたらみたいなものだろうか?



これ以上医療機関にかかる日が増えると(カウンセリングを含めて)最大で週に5日が潰れる。7日のうち5日が治療に費やされる。それほど医療が必要になるまで私は自分を追い込んでしまった。

傷つけられてきたと思っていた人生、1番私を傷つけてきたのは自分だった。自ら手首を切り、自ら飛び降り、自ら薬を多量摂取し、辛い思いをするとわかっていながら悪い男に引っかかり。全部阻止できたことではなかったの?



最近やたらと元担任の夢を見る。
それもメッセージ性があるような夢。

覚えている限りの最初の夢、その夢は高校が目の前に映るところから始まる。正確に言えば道路の反対車線に高校があった。私は、これから入学する高校1年生の女の子と一緒にいた。その子は髪がボサボサで、一重でパッとしない印象だった。多分その女の子は15歳の頃の私だったのだ。コンプレックスの塊が反映されていた。反対車線側の高校の校門には眼鏡の元担任が見回りをしていた。『あの先生に気をつけてね。頑張るんだよ』私はそう言って彼女を抱きしめた。

この夢を思い出して書き出している現実、今泣いている。何を想って泣いているのかわからない。

2つ目、私は蹲って泣いていた。なんで私を捨てるの?ずっと泣いていた。すると元担任が目の前に来た。「本当は愛してる。だから2年待ってほしい。今は結婚して子どももいるんだ」2年待ってほしいって不倫男かよwwwと起きてから笑った。しかも子どもいるんかーい!とクスッとなったが、途端に虚しさや悲しさが込み上げてきた。100%の割合で憎めるならば憎みたい。けど憎めない。本当は愛してほしかった…というのは私の心の底からの願いだった。


子どもをどうするかという話し合いをしたモスバーガーファストフード店でされた命の決断。毎日のようにあの店の前を通るが、あの店を直視できない。未だに。

もう囚われたくない、解放されたい。自由に生きたい。

私はとっくにボロボロだった。

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気づいたらここにいる

1年の中で1番に秋が長い。

ハッと夢から醒めると10月にいる。
まただ、また10月だ。

10.11月以外の日常は夢で、この2ヶ月だけ夢から醒めた現実、生き地獄に帰ってくる。

今年も当然のように不調はやってきた。

3年前の10月に妊娠して、11月の初めに手術をした。おそらく、そこからすべてが来ているのだと思う。

記念日反応という言葉を、去年入院している時に読んだ本で知った。「やめるときも、すこやかなるときも」というドラマにもなった本である。

ググって1番上に出てきたページの解説を添付
→記念日反応とは、故人との思い出が多い季節や故人のことを思い出すことが多くなる時節に、精神的に落ち込んだり感情が不安定になったり体調を壊したり等、心身に引き起こる様々な反応のことです。

多分この記念日反応というものに私は近い状態で、毎年この時期に調子を崩す。調子を崩す+何らかのトラブルや不運なことが重なって毎年この時期は苦しい。

2年前は、勤めていたパチンコ屋のいじめに耐えられずやめた。1年前は、友人とのトラブルが重なって入院することになった。今年は、トラウマの元凶となっている人との再会だった。

去年はボロボロになって、自殺未遂までしてしまった。そこまで悪化してしまうと医療保護で入院させられ、しばらく帰って来れなくなる。それは嫌だ。だとしたら今の時点で何か対策を練らなければ。

昨日の診察で休息入院をしたいと伝えた。
『調子が悪過ぎて1人で生活ができない状況です。できれば休息としての入院がしたいです』と言うと「うん!いいよ!じゃあオーダー入れるね!」とあっさり許可が出た。

今すぐ入院して休みたいと思っていたが、入院の説明を看護師から受けると「1ヶ月以内には入れると思うよ!」と、予想よりもずっと待たされる現実を知った。

そんなに待つことができるのなら、そもそも入院しなくても良いレベルなのだ。今、生活ができないこの現状をどうにかするための入院がしたかった。私は予想外の出来事や返答が来ると、いつもパニックに陥ってしまう。例えば、しばらく帰ってなかった実家の家電が変わっていたり、リビングのソファの位置が変わっているだけで不穏になる。私にとっての「物事の変化」は、常人には理解できないほどのストレスとなる。

待っても1週間くらいで入院できるだろうと勝手に考えていた。それが1ヶ月以内という話に私はパニックを起こした。それと共に、待つ間の生活を考えたら不安で居た堪れない気持ちになった。

子どものように私は泣いていた。

『そんなに…待てない…です…じゃあ、どうやって毎日…過ごせばいいですか…もうしんどいです…わたしは、生きていけないです…』

困った看護師は先生を呼んだ。

「なるべく早く入院できるように、私も頑張るから。とりあえず今日はクエチアピンを出しとくね。院内処方ですぐに飲めるようにしてあるよ」

そうしてクエチアピンを飲まされ、タクシーで帰宅した。



毎日毎日、私は何をしてどう過ごしているのか
どうやってその日を乗り切っているのかわからない

記憶が抜け落ちる。凍った湖の氷が欠落していて、そこからどんどんヒビが入っていく、そんな感覚。もう氷はもたないだろう。あと一歩でも踏んだら全てが崩れてしまう。そして私は溺れる。寒い寒い、刺さるように冷たく痛い。

でもまだ大丈夫…
呪文を唱えるように、大丈夫という言葉を自分に言い聞かせる。

大丈夫、大丈夫、大丈夫、大丈夫、負けるな


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母と私の絵本

林明子さんが描いた
「こんとあき」という絵本についてのお話


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ぬいぐるみの「こん」と「あき」はいつも一緒。あきが生まれた時から、こんはあきの側にいて見守ってきました。あきはやがて、こんよりも大きくなって、こんは段々と古くなり綻びていきました。こんの綻びた腕を治してもらうために、こんとあきはおばあちゃんのところへ旅行に行くことになります。2人は汽車に乗り、あきはお腹が空いてきました。こんは「だいじょうぶ、だいじょうぶ。次の駅に美味しいお弁当を売っているからね」と言いました。そして次の駅でこんはお弁当を買いに行きます。お弁当を抱えて急いで汽車に戻ったこんは、しっぽが扉に挟まれてしまいました。こんが帰ってこないことに不安になったあきは、こんを探しに行きます。こんはあきに「だいじょうぶ、だいじょうぶ。お弁当、まだあったかいよ」と言うのです。汽車から降りた2人は、おばあちゃんちに行く前に砂丘に行くことにしました。そこでこんは見知らぬ犬に連れて行かれ、砂に埋められてしまいます。あきはこんを抱えて「こん、だいじょうぶ?」と聞きました。こんは"小さな声で"「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と言います。あきはこんをおぶっておばあちゃんちに行きます。待っていたおばあちゃんに「こんを治して!」と抱きつきます。おばあちゃんはこんの古びたところを治しました。そして3人はみんなでお風呂に入ります。お風呂に入ったこんは、できたてのように綺麗なきつねになりました。よかったね。


長文になりましたが、こんとあきの話を大体でまとめました。

あきには生まれた時からずっと一緒の、こんという大切な存在がいる。あきはやがて成長して、こんよりも大きくなる。そしてこんは古びていく。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

この絶対的な安心感が、何を彷彿とさせるか
これは紛れもなく母からの愛だなと。

久しぶりに実家に帰ってきて、物が乱雑とした和室にあった絵本。私のことを待っていたのかなって思うほどに、自然に手に取った。読んでいたら涙が出てきた。私の原点ってここだ、この本だなあって、原点回帰。

私にも確かに「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と背中を押してくれた存在がいた。今もずっと、こんは、母は私の背中を押してくれている。背中を押しながら一緒に歩いてくれているんだなあと思い出した。

1番大好きなこの絵本を読んでもらっていた時の、母の「だいじょうぶ、だいじょうぶ」の声、今も覚えてる。思い出せる。大丈夫、私は生きていける。



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障害者手帳取得、障害年金受給

障害者手帳が2ヶ月前ほどに届きました。
結果は3級

この時点で私は落胆しました。
障害者手帳と年金の基準はほぼ同じなのです。
管轄が違うので審査をする人は違いますが、判断基準が手帳と年金はほぼ同じらしく…

手帳3級ということは障害基礎年金2級は無理だろうと。
3ヶ月程度で年金の結果が出るはずだったのですが、3ヶ月後に「審査遅延のお知らせ」が届きました。病状の確認のため審査が遅延していますと。その時点から1ヶ月程度で結果の通知が来るらしい。

1ヶ月経った8月あたま。
まだこない…審査の結果に不安になる日々。

年金事務所に電話をかけた。
「ほぼ結果は出ています。最後に厚生労働省に確認をしてからの結果郵送になります。1ヶ月ほどお待ち下さい」

9月あたままで待たされるのか…
それを考えるだけでメンブレ。

しかし、考えた。
もし却下されたとしたら厚生労働省に確認する必要はないのでは?本当にこの人に受給させていいかを確認したのではないか?それなら通ったのかもしれない。

そう思いながらも毎日が不安でした。


そしてついに結果が来た。

障害基礎年金2級の認定。
つまり、年金を貰えることになりました。

市役所に行って書類をもらってから結果が出るまで約10ヶ月かかりました。本当に本当にしんどい日々。

病歴申立書という自分で過去から現在までの病状を書く書類があるのですが、トラウマを思い出したりで泣きながら作成しました。


私が実際に作成したもの、やり方などを載せた記事があるので是非読んでください。

https://ena-chan.hatenablog.com/entry/2020/03/14/044810

年金をきちんと支払っていて、精神科通院を始めて1年半以上経っている人であれば貰えるチャンスはあります。
ただ、例えばレイプされて病気を発症しましたという外傷体験や事故によっての精神障害は認められないようです。

審査が通れば精神科に通院している期間の5年分を辿れることになるので、障害基礎年金2級で最大360万が貰えます。そこから1ヶ月6万円ほどをもらい続けられます。

ただお金を持っている人よりも、知識を活かして資産運用したり、制度をうまく使うことが大切です。

無知の知を自覚して勉強しようと思いました。

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薬物依存症という現実

歪んだ傷だらけの夏 【救急搬送】 - あの日々に鍵をかけて

前回の記事、救急搬送された日の翌日のお話。

実家に戻った自然と私は父の車に乗り換えた。助手席に座った。父も自然に運転席に乗り、ふたりで話し合った。

父と話す時は、喫煙できる父の車か畑のテラスに座る。

『私パパがお酒やめられないことをなんで?って疑問に思ってた。私たちのことを本当に愛しているのなら、おさけくらいやめられるでしょ?って。でもそんな簡単な話じゃないってわかったんだ』
「うん、そうだな。俺が悪い見本でごめんな」
『今後のことはちゃんと考えます』

"頑張ってODをやめられるようにする"
強く思った。思っただけで、決意まではできなかった。やめられる気がしなかった。現状3日のうち2日はODをしている。とりあえずの目標は5日間で1回、月のトータルは5.6回にしたい。

実家に泊まりたかったが、薬がなかったので家に戻ることにした。

家にはブロンが1瓶残っていた。
その翌日『やめるなら残ってる1瓶勿体ないから最後に飲もう』とあけてしまった。痛い目にあったのに、私は本当に懲りない。

搬送された情報提供書を持って、なるべく早く精神科を受診することをキツく言われていたので、クリニックに電話をかけた。今から来てということだった。

ブロンが入ったままクリニックに行った。

「遂になかった搬送されたのか〜でもよくもったほうだよ。1年もパブロン飲んでて、今まで搬送されなかったのが不思議だね。えなはタフだね」と主治医は笑っていた。
『へへ、運ばれちゃいました』と私も笑った。

『今後の計画としてはどうすればいいですか?入院した方がいいですか?開放病棟で受け入れてもらえるなら入院したいです』
「今の状態だと開放で受け入れてもらうことは無理だね〜病院探しておくよ」

話はここまでしか覚えていない。ただ、主治医はいつも優しくて、この日は増して優しくしてくれた。

心配だから来週もきてと言われた。



前回、この日のちょうど1週間前に受信した時、待合室で子どもがうるさかった。うるさいというのは私の感覚で、聴覚過敏がない人にとっては静かな空間らしい。

この時、私は我慢ができなくて『静かにしてください』と言ってしまった。どうしてもどうしても、音が苦手だ。それを見た医療事務の女性が「使っていない診察室をあけるので、ベッドで横になって休んでていいですよ」と親切にしてくれた。

その日、受診を終えて外に出た瞬間に『なんで我慢できなかったんだろう。ごめんなさい』ととてつもない罪悪感に襲われた。

数日前の受診では、クリニックに着いてすぐにベッドに連れて行ってもらった。

主治医に『いつも我慢できなくてごめんなさい』と謝った。すると主治医は「えなに悪気がないのはわかっているし、調子が悪いから仕方ないんだよ。大丈夫」と言ってもらえた。

理解してもらっていること、理解の上の配慮に泣きそうになった。心がじんわりと温かくなっていった。私も誰かに優しくして、優しくした相手が誰かに優しくしてくれたらいいなと思った。

そのまた翌日もODをしてしまった。
ODしてからpと会って、カウンセリングまで送ってもらい、終わった後は家まで送ってもらった。『入院費12万だった(ぴえん)8万どうにかできない?(泣)4万は自分でなんとかする!』と事前に言っておいたので、送り迎えだけだったが結局10万円を、心が温かくなったとか言っておきながら翌日には容赦なく金をもらった。

そして昨日、友達と出かけたおかげでODをしなくて済んだ。
昨日『最低でも1週間は買わない』と決めたのだが、今朝になってどうしても飲みたい欲求が湧いた。1日あけたからいいだろうと言い訳してドラッグストアに買いに行った。

そうしていつも通り84錠、1瓶を空にしてしまった。

救急搬送されても懲りずに飲んでしまうが、未だに薬物依存だという現実を受け入れられない。やめようと思えばやめられる、そう思っている。
現実を受け入れるために、ブログ村のカテゴリーに薬物依存を追加した。

明日は飲まずに頑張れますように。


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歪んだ傷だらけの夏 【救急搬送】

1年間パブロンODを続けた。
パブロンというのは結構強い薬で、体に負担がかかりすぎる。その理由でエスエスブロンに移行した。


ブロンに移行して1ヶ月。毎日のように量は増えていった。最近はODを1日おきに休みを作るように頑張っていた。その日は2日連続で飲んでしまった。いつも通りに1瓶、そして調子に乗ってプラス2本目で35錠ほど飲んだ。気分は最高だった。この時に「飲みすぎて倒れるなよ」と友達に言われたばかりだった。突如吐き気がきてゲロゲロ吐き始めた。次第に吐血した。茶色になった血を見て「なんか茶色系のものを食べた?いや、食べた」そう思い込んだ。しかしどう考えても血でしかなかった。異常な発汗。フラフラで動けない。 #7119に病院に行ったほうがいいかを問い合わせた。すると「すぐ救急車で病院に行ってください」と電話はそのまま救急隊にフラフラのまま保険証とお薬手帳を鞄に突っ込んだ。救急車が来るとなって父親に電話を入れていた。間も無く父親が駆けつけた。


実はこの日、昼間父親が訪問しにきていて、その時にはブロンがかなり効いていた。救急車に乗り込んだ父は「ごめんね、えな。あの時も無理してたの?気づけなくてごめんね」と言われた。私は言った『これ以上薬を飲みたくなかったから、パパに一緒にいて欲しくて引き留めただけだよ。パパが気づかなかったのは当然だよ。私は気づかれないようにしてたし、けど一緒にいて欲しかった。パパ、ごめんなさい』


ストレッチャーで処置室に連れていかれた。この時期コロナ対策として肺のレントゲンを撮られた。膀胱にかなり水が溜まっていたが、排尿が全くできなかったので、尿道バルーンを入れられた。これがくそほど痛かった。


病名 急性薬物中毒

ここまでするかと言わんばかりの採血。点滴は3本。血栓予防のために足のマッサージ機。こんな時まで私はお金の計算をしていた。この病院は診療報酬をあほみたいに取ってくるな~
点滴で解毒されたおかげですぐに離脱症状が来た。ありえないほどの下痢。相変わらず尿道のバルーンは取ってもらえなかった。私はこの時尿道にただのまっすっぐなカテーテルが入っているだけだと思っていた。無理やり何度も取ろうとした。そして後から知る。バルーンが入っているのだから抜けるはずがないと。

この日は禁食だった。

朝7時起床。皆がご飯を食べている中、私はお腹がすきすぎて泣きそうだった。しかもこの時相当寝ぼけていた。認知のおばあちゃんばりに「朝食まだですか?」と何度も聞いた。当たり前に嫌な顔をされた。8時になりようやく朝食の許可か出た。私は貪った。貧乏な家でろくにご飯を与えてもらえない子供が給食を貪るように。


数時間後、退院の許可が下りた。お父さんが迎えに来てくれます。と言われた。弟の運転でお父さんと弟が二人で迎えに来てくれた。ごめんなさいと謝った。薬物中毒の姉を見たお弟は何を思っただろう。


→その日の出来事は次に続く


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世界と私の一線

2020/07/28 20:24

「自分が誰なのかわからないわからないわからないわたしは誰なの?わたしはいないはずなのにわたしがいるのはどうして、でもTwitterできるからまだ大丈夫、わたしはおかしくないおかしいと思われたくないのにおかしい?わたしは誰?ママって誰?本当にわたしのママなの?ママって何? 」



2020/07/28 20:26

わたしはわたしじゃないし人間じゃないし生きていないので死ぬようなことをしても元々生きてないしこれは夢だからむしろ夢を醒したい夢を醒ますために飛び降りてみようと思うけどどこかで何か引っかかっててしっかりしろって



2020/07/28 20:27

家族って何?23年間って長い時間のはずなのにわたしは家族を知らない、名前はわかるけど誰か知らない思い出したくない






自分が誰なのか。えな という存在が何なのか。えな が私なのかどうか。母親に助けを求めるLINEをしたけど、母親が母親なのかあまりわかっていなかった。

私は誰?ママはママなの?とLINEをした。

すぐに電話がかかってきた。
「どうしたの…」

心配している、どこか怖がっているような声が私を苛立たせた。私が一番不安で何かわからないのにそんな不安な声をしないでよ!その時はそうとしか思えなかった。

10分ほど話した後に突然電話を切った。

レボトミン5mgをワンシート飲んだ。
すぐに落ち着いた。

Cちゃんに電話をした。
よく覚えていないけど助けられたということだけはわかる。

数時間のよくわからない頭のおかしい自分を思い出したくない。鮮明に思い出せない。ツイートの記憶もない。母親に電話をして苛立ったこと、レボトミンをワンシート飲んでCちゃんに電話をしたこと、これはわかる。これ以外はわからない。

私は私のことを知らない
何も思い出したくない、つらい、怖い

思い出すな、なにも。考えるな、何かの蓋をあけたら死ぬぞと冷静な私がどこかで忠告する。

ぼんやりとした膜の中にいる。

何かを思い出すことが怖い。
死んでしまいたい。


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